プロ野球歴代選手名鑑

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水尾嘉孝(横浜/オリックス/西武)

水尾 嘉孝

みずお・よしたか
生年月日:1968年5月2日
投打  :左投げ左打ち
身長/体重:177cm/72kg
ポジション:投手
出身  :奈良県
ドラフト:1990年1位
経歴  : 明徳義塾高校-福井工業大学-横浜大洋ホエールズ/横浜ベイスターズ(1991~1994)-オリックスブルーウェーブ(1995~2000)-西武ライオンズ(2001~2003)
持ち球 :ストレート、スライダー、カーブ、晩年にはシュートとフォークも投げた

選手概要

リリーフで開花した左腕。

明徳義塾高校時代は、3年夏に県大会決勝で敗れるなどし、甲子園出場はならず。3年秋には手術を行った。

その影響で福井工業大学進学後も、しばらくは投げられず。2年秋に野球を再開すると、3年時と4年時に日米大学野球日本代表に選ばれるなどの活躍を見せた。大学通算11勝1敗、防御率1.48を記録。

"大学No.1左腕"と呼ばれ、1990年にドラフト1位で大洋へ入団。この時の契約金は、当時としては最高額となる1億円だった。

大洋・横浜時代

1年目の1991年は二軍で19試合に登板。6勝4敗、防御率5.69という成績で、即戦力とはならなかった。また、シーズン終盤には左肘軟骨手術も受けている。

2年目の1992年は一軍で8試合に登板。しかし、0勝3敗、防御率5.04という結果だった。二軍では17試合を投げ、2勝5敗、防御率4.36という成績。

3年目の1993年は一軍で1試合に登板。だが、この試合で1アウトも奪えず4失点してしまい、0勝1敗、防御率∞を記録することになった。ただ、それでも二軍では24試合を投げ、3勝2敗2セーブ、防御率2.87と好投を見せている。

4年目の1994年は二軍で28試合に登板。10勝6敗2セーブ、防御率2.20と好投するも、一軍では11試合、0勝1敗、防御率6.28と成績を残せず。

ドラフト1位ながら目立った活躍がないまま、同年オフにオリックスへトレードで移籍した(水尾+渡部高史+堀江賢治⇔飯塚富司+伊藤敦規)。

オリックス時代

新天地で迎えた翌1995年は、二軍で15試合投げ、3勝3敗、防御率2.04を記録。一軍でも1試合を投げて1勝0敗、防御率1.50の成績を残した。

翌1996年も二軍で30試合、3勝1敗3セーブ、防御率1.54と結果を出したが、一軍では1試合投げたのみ(0勝0敗、防御率0.00)。

しかし翌1997年、一気に才能が開花。橋本武広と並びリーグ最多となる68試合に登板し、1勝2敗2セーブ、防御率2.26を記録した。

さらに翌1998年も55試合を投げ、3勝0敗、防御率1.89と好投。

翌1999年は9月に左ひじを手術するなどして30試合の登板に留まった(0勝0敗、防御率3.00)。

翌2000年は9試合とさらに登板が減少。1995年以来となる先発登板もあったが、0勝1敗、防御率5.19と結果を残せず、オフに戦力外となった。それでもオフに西武の入団テストへ合格。翌年以降に望みを繋げた。

西武時代

すると翌2001年は48試合、2勝1敗、防御率3.99と復活。この年はこれまでのスライダー中心の投球から、フォークとシュートを多投する投球へモデルチェンジしていたようだ。

翌2002年も35試合に投げ、0勝0敗、防御率1.80と結果を残した。この年は、あまりフォークを投げず、スライダーとシュートを中心に投げていた。

しかし、翌2003年に2試合の登板に留まると、オフに再び戦力外に(0勝0敗、防御率9.00)。

その後メジャー挑戦を図り、マイナーリーグの球団に所属したが、メジャーデビューとはならず、2006年2月に現役を引退。

引退後は自由が丘でレストランを開業するなど、まったく新しいキャリアへ進み、マスコミにもたびたび取り上げられていた。

だが、近年は母校・福井工業大学でコーチを務めるなど、再び野球の道を歩み始めている。

選手分析

投球:横浜時代は、140km台前半のストレート、120km台半ばのスライダー、110km台後半のカーブを投げた。

オリックス時代の1998年は、130km台後半~140km台前半のストレート、120km台半ばのスライダーを投げた。

 

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