南温平-最多出場を果たした年に引退

南 温平

みなみ・おんぺい
生年月日:1930年1月6日
投打  :右投げ右打ち
身長/体重:5尺4寸5分(165cm)  17貫5(66kg)
ポジション内野手
出身  :和歌山県
ドラフト:なし
経歴  :田辺高校-海南日東績紡-読売ジャイアンツ(1950年~1954年)-大洋ホエールズ(1955年)

概要

1949年途中に大阪で行われた巨人軍新人応募テストに合格し、巨人に入団。大阪のテストと同時に東京・福岡でも新人応募テストが行われており、東京では岩下守道・松田清・持田誠・宮本二郎が合格。大阪では南が、福岡では中島執が合格した。

 

ちなみに東京での新人テスト参加者は381名、大阪が283名、福岡が291名であった。合計955名の中からこの6人は選ばれたというわけだ。

 

その後、彼ら6人は二軍に編入。南は入団時からグラブ捌きが注目されており、千葉茂二世との呼び声も高かった。

 

しかし、南はその千葉からポジションを奪うことができない。 1951年、1953年に数試合出場したきり。しかも打席には一度も立っていない。1954年の二軍公式戦では主に、1番・セカンドとして出場。レギュラー選手として岩下らと共に活躍しているが、それでも一軍での出場は無し。

 

この頃になると「南ら二軍選手は下位球団ならレギュラー」というような声も上がっていたようだ。ちなみに、この年に南は岩下らと共に巨人軍のオーストラリア遠征に帯同している。一軍の試合には出られずとも、南はまだまだ期待されていた選手だったのではないだろうか。

 

だが1954年オフ、南は手塚明治と共に大洋ホエールズに放出されてしまう。これはどうも大洋側からの要望で実現した放出であったようだ。 内野手が不足している大洋はどうしても有望な内野手が欲しかった。

 

そのため、内野手が余っている巨人軍に「誰か内野手をくれないか」と持ちかけたらしい。ちなみに大洋側は南の親友でもある岩下も要求したが、これは断られてしまったようである。

 

大洋に移籍した1955年。南は一気に出場数を増やす。だが、スタメン出場のほとんどが下位打順であり、打率も2割を切る成績であった。「下位球団ならレギュラー」という言葉が本当であったことを証明したが、それにふさわしい成績を残すことはできなかった。

 

そして、1年間レギュラーとして自己最多出場を果たしたこの年限りで南は大洋を退団。社会人へと活躍の場を移すことになる。レギュラーとして出場し、自分の限界を悟ったのだろうか。

 

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