致命的に投手として向いていなかった?-椙本勝

椙本 勝

すぎもと・まさる
生年月日:1931年7月1日生まれ
投打  :右投げ右打ち
身長/体重:5尺9寸(179cm) 20貫(75kg)
ポジション:投手、外野手
出身  :山口県
ドラフト:なし
経歴  :萩北高校-松竹ロビンス(1951~1952)-大洋松竹ロビンス(1953~1958)
持ち球 :不明
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概要
高校時代は「萩高に椙本あり」と呼ばれるほどの活躍を見せ、1950年春のセンバツ甲子園にも出場。 6尺近くの身長と20貫から繰り出される剛速球が武器だった。また、打撃もよかったようだ。

 

松竹ロビンスはこの若い投手に大いに期待するが、1年目は登板無し。 2年目に26試合に登板するが、4勝12敗、防御率5.73といまいちの成績だった。

だが、その勝敗や防御率の成績よりもひどかった記録がある。ボークだ。 2年目の1952年に椙本は1シーズン6ボークのセ・リーグ記録を達成してしまった。

ちなみに、同年にパ・リーグでは前に紹介した五井孝蔵が9つのボークを犯し、日本記録を作ったため、幸い椙本は日本記録を樹立せずに済んだ。

 

おそらくはこの悪癖のせいだろう。椙本はこの年の8月19日から外野手として試合に出場している。 ランナーを出すとどうしようもなくなるので投手には向いていない、と判断されたと想像できる。 五井もボークの面が野手転向を決断する要因の一つになったのかもしれない。 岩本義行平山菊二が退団し、外野手が少なくなったことも外野転向に影響したようだ。

 

野手転向した翌1953年は19試合の出場にとどまってしまうが、その後、1954年と1955年には規定打席に到達。

打率はそこまで高くないが、1954年の洋松のチーム打率が.227、翌1955年が.209であることを考えると、椙本はそこそこチームに貢献していたのではないだろうか。

打順も1954年こそ6、7番中心だが、1955年には5番に座ることが多くなり、さらに5試合に4番としてスタメン出場を果たしている。

 

だが、翌年以降は打撃不振に。 出場試合数も少なくなり、尻すぼみのまま1958年に引退することとなった。当時のコーチ曰く、腰が落ちる欠点があったとのこと。

 

当時の他の選手と比較して立派な体格を持っていた椙本は、ボーク癖のために投手として成功することはできなかった。 野手転向後も2度の規定打席到達を果たしたが、一流と呼べるほどの成績を残すことはできなかった。

もし、椙本が投手を続けられていたらどうなっていただろう。 6尺近くの長身から投げ下ろされる速球を武器に活躍していただろうか。 2年目の成績だけではわからないが、そんなifを考えてみたくなる。

 

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