1957年の代打男-川本浩司

川本 浩司 

かわもと・こうじ
生年月日:1934年12月1日生まれ
投打  :右投げ右打ち
身長/体重:5尺6寸(171cm)17貫(64kg)
ポジション:捕手/内野手
出身  :京都府
ドラフト:なし
経歴  :山城高校-関西学院大学-大映スターズ(1955~1956)-大映ユニオンズ(1957)

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概要

関西学院大学時代は捕手として活躍。

 

大学卒業直前に肩を痛めたために(二塁へのモーションが大きかったことも影響したようだ)一塁手へと転向をはかった。

 

入団初年度である1955年、開幕3試合目の阪急戦でいきなりスタメン4番で一塁手を任せられるなどバッティングを期待されていたようだが結果は残せず。 結果を残せなかった要因の一つとして、右打者でありながら左投手を苦手としていたことが上げられる。左投手の中でも特に阪急・梶本隆夫を苦手としていたようだ。

 

ちなみにこの年、スタルヒンが通算300勝を達成したが、この試合で最後の打者となった選手が川本だった。 2年目、1956年には一塁手へと本格的に転向。一塁手として51試合にスタメン出場を果たす。

藤本定義監督曰く「キャッチングはうちのチームで一番巧く、頭がいい」とのことだが、やはり痛めた肩の影響が大きかったのだろう。左打ちの一塁手滝田政治との併用で使われていたようだが、右打者でありながら左投手を苦手としている川本をツープラトンで起用する意味はあまり無かったと思われる。

 

この年の開幕前に、俊足を見込まれて外野に転向するプランもあったようだが実現はしなかった。 また、前年と比べ、打率は上がったが何故か四球数が大きく減っている。そのため、出塁率は.298から.282に減少。

 

3年目、1957年はスタメン出場機会がわずか13試合に終わる。だが、この年の川本はパ・リーグナンバーワンとなる76回の代打起用をされた。 それだけ打つ方での期待が大きかったということだろうか。それとも川本以外に起用できる選手がいないほど大映の選手層が薄かったか。この年、76回も代打起用されながら打率.186、出塁率わずか.228に終わったことを考えると、後者が正しいかもしれない。

 

そして川本はこの1957年オフ、大映ユニオンズ毎日オリオンズと合併したときに、ユニオンズを退団している。どうも新生・大毎オリオンズの監督、別当薫の構想に入っていなかったようだ。肩を痛めた一塁専任である川本は使いづらい選手だったのかもしれない。入団していたとしても、当時のオリオンズの一塁手はあの榎本喜八だ。彼からポジションを奪うことは難しかっただろう。

 

つくづく肩の怪我が惜しまれる。キャッチングやリードには非凡なものがあったようなだが……。

 

野手「か行」へ

1950年代退団へ